「鼻毛出てるよ」
高崎さんが、そういった。
オレは、彼女がなにを口走ったのか、すぐには理解できなかった。
鼻毛。
彼女の口から出た言葉は、オレの耳が確かなら、鼻毛。
顔を上げると、高崎さんの視線が向かう場所は、オレの顔面のほぼ中央近辺だった。
机を挟んだ向かい側に、彼女は座っている。距離にして、一メートルもない。確かに、オレの鼻毛を鑑賞するには、絶好の間合いだ。
オレの鼻から、鼻毛が出ている。
否。そんな馬鹿な。このオレが、鼻毛が鼻から出ていることに気づかないまま、授業を終え、このマンガ・イラスト研究部の部室に足を運び、先にきていた高崎さんを相手に、昨日徹夜で考えたロボットものの設定を、意気揚々と話していたというのか。机に広げたノートに、同じく昨日考えたロボットの絵を描きながら、興奮気味に話していたというのか。
ありえない。嘘だ。
オレは、そう結論付けた。
いや、まてよ。
即刻、オレはオレ自身に反論する。
高崎さんは、嘘をつくような女子じゃない。彼女が嘘をついたという話なんか、聞いたことがない。
そうだ。彼女はちょっと天然なところがあり、普通口に出さなくていいようなことを、あっけらかんということがあるのを、オレは思い出した。
ということは、やはり。
オレは瞬間的に青ざめ、息を呑んだ。
なぜなら、オレは高崎さんのことが、気に入っていたのだ。いや、自分をごまかしても詮方ない。はっきりいおう。オレは高崎さんのことが好きなのだ。
ぶっちゃけ、彼女はそんなに可愛い方ではない。上の下というか中の上。若干釣りあがり気味の目は一重だし、胸の膨らみもワイシャツごときに潰されるくらいの平らさだ。他の同級生と比べても、見掛けは劣る。 成績だって、そんなにいい方じゃない。全教科赤点ラインギリギリの低空飛行を得意とするオレよりは、遥かにマシだが。
彼女の魅力は、声だ。上ずった鼻声みたいな彼女の声は、アニメの声優のようで、凄くいい。一人称を「ボク」とかいわせてみたい衝動に駆られる程だ。
あと、おでこが広いのもジャストミートである。幼児体系なのも、実は好みの範疇だ。こうして机ごしに対面しているだけで、オレのハートはドッキンドッキンと激しいビートを刻んでいた。
それなのに、だ。
鼻毛が出ているだと。
微笑を浮かべながら、オレの話を真面目に聞いていたのかと思ったら、鼻毛を凝視していただと。 興味深そうに身を乗り出していたのは、オレの鼻毛がそよぐのを、観察するためか。
信じられない。本当なのだろうか。
本当だとしたら、とてつもなく最上級に恥ずかしいことだ。
しかし、本当である確率はほぼ百パーセントだ。何故なら、高崎さんは嘘つきじゃない。
ここまで、オレは約0.二秒で考えた。
高崎さんの顔は、「鼻毛が出てるよ」と口にした時点から、変化がない。
オレは、更に思考する。
この部室にいるのは、オレと高崎さんだけだ。マンガ・イラスト研究部の部員は、幽霊部員が多い。毎日顔を出すのは、オレと彼女と、今は補習を受けている部長くらいなもんだ。
ふたりだけの部室。
ふたりだけの空間。
それなのに、鼻毛。
いつも部長のことを邪魔だなと思っていたのだが、まさか鼻毛にまで邪魔をされるとは。
鼻毛、なんという残虐な響きだ。
間抜けさと、情けなさと、無様さが混じる、絶妙な存在。 生物学上必要なものかも知れないが、なくても構わない、いやむしろない方がいいとさえ思える物体。
この鼻に鼻毛があるということを、オレは恨む。オレの鼻に鼻毛を植えつけた親を、いや、神を恨む。 好きな女の子の前で迂闊にも飛び出すなど、言語道断だ。
悲観していても仕方がない。オレは、どうすればいいか、考える。 最良の方策を、考える。
「えーまじー鼻毛出てたーあははー」などといいながら、ぷちっと抜くか。しかし、鼻毛を抜くシーンなんか見られたくない。それに、抜いた鼻毛はどうすればいいのか。まさか、ぽいっとその辺に捨てるわけにもいくまい。ゴミ箱は、部室の隅だ。そこまで歩いていき、ぽいっと捨ててうわああ……。
だめだ。耐えられない。ゴミ箱に行くまでの間、オレの背中を彼女はどんな目で眺めるのか、想像もしたくない。 想像したら最後、間違いなく気を失うだろう。
ではどうするか。
「ファッションなんだよーえへへー」って、アホか。
「鼻毛で三つ編みって結えるかな?」って、結えるわけがない。
「鼻毛真拳~」って、ボーボボか。
いいアイディアが出ない。
まずい。なにも思いつかない。
ここまで、オレは約0.四秒で考えた。
高崎さんは、まだ瞬き一回としていない。
しかし、そろそろ一秒が経過する。高崎さんが、次のアクションを起こすかも知れない。今は微笑を浮かべているが、それが嫌悪の顔に変わるかも知れない。
窮地だ。
追い詰められた。
オレは自分の無力さを呪った。こんなことになるくらいなら、毎日鼻毛チェックをかかさず行えばよかった。鼻毛カッターを買えばよかった。ああ、自分が恨めしい。
「ちょっと待ってね」
ついに、高崎さんが動いた。
オレの思考は、鈍くなっていたようだ。
そうと気づき、愕然とした。
どれくらいの間、オレは固まっていたのだろう。どれくらいの間、鼻毛を凝視されていたのだろう。 オレの心臓は、さっきまでとは違った、乱れに乱れた困窮のビートを刻む。
高崎さんは、わきに置いた鞄を膝の上に乗せ、なにやら物色し始めた。
そこから、なにを取り出すというのか。
緊張のあまり、耳鳴りがする。オレは、唾を呑み込んだ。
「あった。いいかな?」
オレの大好きな、高崎さんの声。
キラリと、彼女の手の中で、なにかが光った。
銀色の輝き。
高崎さんの持つそれが、オレに近づく。オレの鼻に向かって、どんどん近づく。
なんだ。これはなんなのだ。オレは困惑する。なにが自分の身に起ころうとしているのか、認識できない。それくいらい、オレはパニクっていた。
パチン。
「はい。切れましたー」
はらりと、ノートの上に鼻毛が落ちた。
意外に太い、毛。
その刹那、オレは理解した。
高崎さんが、ハサミでオレの飛び出た鼻毛を切ってくれたのだ。
「あ、ありがとう」
オレは引きつりまくった顔で、呻くように、そういった。
高崎さんは、可愛らしく首を傾げると、アニメの声優のような声で、
「エヘ」
なんていった。
その仕草により、オレの緊張は解除された、というか爆砕された。
可愛い。むっちゃ可愛い。彼女が至上の天使に見える。こんなに可愛い高崎さんが、オレの飛び出た鼻毛を、私物のハサミを使って切ってくれるだなんて、信じられない。素晴らしい。なんていい娘なんだ、高崎さん。彼女の優しさと壮絶なまでの献身っぷりに、オレは惚れた。あらためて、惚れ直した。高崎さんは、素敵だ。素晴らしい女の子だ。こんなにいい女子なんて、世界中探してもいないに違いない。 宇宙規模で好き好き大好き。
オレは、意を決した。
ガタンと椅子を弾き飛ばしながら、鼻息荒く、オレは立ち上がる。
「高崎さん! オレと付き合ってくれ!」
オレがこの一年間胸に秘めていた熱い想いを吐き出すと、高崎さんは驚く素振りすら見せず、ハサミを持ったまま、笑顔を絶やすことなく、こう答えた。
「鼻毛、また飛び出してきたね。おもしろーい」
オレは、死のうと思った。