Kの力
僕が住むK市の南半分は、奴らに支配されていた。
具体的にいうと、市の中央を東から西へ横断するJR中央線を境に、南部だけが奴らのものになっているのだ。市役所、警察署、品揃えのいいゲーム屋、それに加えて、美味しいカレーの店までもが、奴らの手に渡っている。
残された北側に、僕は住んでいた。
市の北側には、総合病院とか、広い公園とか、ラーメン屋通りとか、パチンコ屋がある。臨時の市役所は、駅前の大型スーパー、K’sマートの中に入れられた。
中央線の線路の向こうは、厳重に封鎖されていた。
物々しい自衛隊の仮設本部が設置され、装甲車とか、戦車とか、妙な特殊車両なんかが配備されている。奴らの侵攻を抑えるための軍備には、アメリカの介入もあった。甲殻歩兵という兵装がそうだ。通称”K兵”と呼ばれているそれは、真っ黒な防弾甲冑を着込んだ、装甲兵だ。動力が組み込まれていて、通常の人間の数倍の力を出すことができるらしい。
奴らがK市の南半分を侵略してから、もう半年が経つ。
こんな状況なのに、今のところ、生活は平穏だ。不思議に思えるくらい普通だ。中央線も走っている。市の北側にある学校だって、休みにはなっていない。
それは、僕らのお蔭なのだ。
僕はいつものように、遅刻ギリギリの時間に起床する。
憂鬱な気分だった。目覚ましの音が、恨めしい。
重いドアを開け、居間を覗くと、テレビがついていた。朝のニュースだ。K市の南の映像を流し、訳知り顔のコメンテイターや、なんとか評論家たちが、適当なことをほざいている。
お父さんが、テレビを見ながら、「いい気なもんだよな」といった。台所のお母さんは、「いい気なもんよね」といった。彼らの顔は、どこか得意げだ。
低血圧のお姉ちゃんは、テーブルに肘をついて、涎を流しながらぼけーっとテレビを眺めていた。もう大学生だというのに、だらしない。僕は苦笑して、ティッシュでお姉ちゃんの涎を拭いてあげた。
すると、お姉ちゃんは椅子ごと背後にひっくり返り、白目を剥き、泡を吹いて痙攣し始めた。
お父さんとお母さんは、僕が居間に現れたことを知ると、バタバタと暴れ出し、揃って窓辺に張り付いた。
「おはよう」と、お母さんが震える声でいう。
「おはよう」と、僕はお姉ちゃんの酷い顔を見ながら答える。
僕はため息を呑み込むと、脅えた両親を一瞥して、自分の部屋に戻ろうとした。
「早起きだな。お前、今日は学校じゃないんだぞ」と、お父さんが威厳を込めて、でも裏返った声で、そういった。
「もう行くよ」僕は背中を向けたまま、そう答えた。
自分のスケジュールくらい、把握している。子どもじゃないんだ。僕は自分の部屋の重いドアを閉めると、高校の制服じゃなくて、普段着に着替え始める。黒いジーンズに、紺のパーカー。どうせあとで着替えるんだから、適当でいい。
密閉マスクを装着する。口元にぴたっと張り付くタイプのマスクで、これをしないで外に出ると、大変なことになってしまう。
嫌な世の中になったな、と思う。
僕は、なにもいわずに家を出た。
駅前は、出勤するサラリーマンや学生で、混雑していた。ホームから聞こえてくるアナウンスに耳を傾けると、今日も人身事故で遅れているみたいだ。
みんなは今日も、普段とたいして変わらない毎日を送っている。奴らのせいで大きく変わったのは、僕の人生の方だ。
遮断機の前に立つマスクを着けた警備兵に声をかけ、線路を渡る。自衛隊の仮設本部は、粗末なプレハブだった。JRの工事用の敷地の中に、でんと構えている。その先は、厚い壁。奴らの攻撃を防ぐその壁は、百ミリの鉄板だという話だ。
「おはようございます」
やる気のない声でそういって、僕はプレハブの中に入った。
「グッモーニン。遅刻ギリギリだぞー」
眠そうな顔で出迎えてくれたのは、カレラさんだ。彼女は、ハーフだ。肩まで伸ばした髪の色がブロンドで、コピー用紙みたいな白い肌をしているが、瞳の色は黒い。歳は僕の1コ上。高校は違うけど、中学までは一緒だった。
「あれ。カレラさんひとりっすか」
「うん。つか、克己くん、寝癖酷いぞ」
彼女はいつも、苗字じゃなくて名前の方で僕を呼ぶので、なんだかくすぐったい。ソプラノの素敵な声で呼ばれると身悶えしちゃうくらいなんだけど、今はマスクを装着しているから、くぐもった声だ。
僕はびよんと跳ねた髪を撫でながら、彼女のそばのパイプ椅子に座ると、なんの気なしに壁に並べられたモニタを眺める。いつ見ても、なにが表示されているかよくわからない。わかるのは、時間と気温くらいだ。
部屋は狭いのに、マスクを着けた自衛隊のひとたちは、忙しげに働いている。緊張した顔で、動き回っている。キーボードを叩く音は、途絶えることがない。
完全に、僕は浮いていた。ここは、普通の高校生男子が、普段着でいる場所ではない。キャミソールにミニスカートというカレラさんも、当然浮いている。ノーブラなのか、ぽっちも浮いている。
「カレラさん。なんか変化ありました?」僕は視線をさまよわせながら、そういった。
「変化なんかないわよ。暇。すっげ暇。夜はめったに攻撃してこないもん。つか、克己くんがうらやましいよ。今日って、特攻でしょ。楽しそー」
「……じゃあ代わってくださいよ」
「ノー。絶対にノー。わたしは、あんたみたいに強い”K”じゃないもん」カレラさんは、皮肉めいた笑みを浮かべる。「特攻するなら、あなたくらい強くなくちゃ」
「カレラさんだって、強いっすよ。選ばれたんだし」僕は、むっとした。「夜番ひとりで任されてるのだって、認められてるからっすよ」
「あーらご謙遜。世界を背負うほどの”K”にそういわれると、嬉しいわー」
「僕は、そんなに強くない」
「なによ、世界最強の”K”のくせに。”K”の強さって、本人はなかなか気づかないのよねー」
「カレラさんだって、そうだったんでしょ。最後まで否定してた」
「うるさいわね。あんたは前から有名だったわよ」カレラさんの顔が、けわしくなった。
「カレラさんこそ」僕はわざとらしく肩をすくめて、哀れるような目で彼女を見た。「有名でしたよ」
「な、なによー、その目。年下のくせにー」
カレラさんは、攻撃を始めた。何故かわからないけど、彼女は怒るとやたらとひとの服を脱がそうとする。
「やめてくださいよ。エッチ」僕は椅子を盾にして、逃げ回る。「そんなんだから、彼氏ができないんすよ」
「あんたにいわれたくない」カレラさんは、胸を揺らしながら椅子を蹴り倒す。「あんただって、フラれてばっかじゃん。知ってんだかんね」
「う、うるさい。僕だって、”K”がなかったら」僕は、彼女の腕力の前に劣勢だった。抵抗しても無駄で、パーカーを奪われてしまう。「うわっ。や、やめてくださいってば」
「なによそのおなか。ダイエットしたら」カレラさんの攻撃は、執拗だった。ついに、僕のジーンズを下ろそうと襲いかかってきた。「さっきわたしの胸見てたでしょ。硬くしてたら、折ってやるわ」
「や、やめて。お願いだからやめてやめて」僕は叫んで、狭い部屋の中を逃げ回る。
これだけ暴れまわって騒いでいるのに、周りの軍人たちは、僕らを叱ろうとしない。脅えのこもった目で、ただ遠くから眺めるだけだ。
カレラさんの手が、いよいよ僕のパンツにかかったとき、部屋の空気が変わった。とても日本人とは思えないくらいがたいのいい男性が、入ってきたのだ。坊主頭の上に軍帽を乗せた彼は、やたらと眉毛が太く、その下の目はナイフのように鋭い。僕らと同じようにマスクを着けているけど、立派な髭が飛び出していた。
「おはようございます、鹿島一等陸尉」
僕は慌てて真面目な顔を取り戻すと、しゃきっと背筋を伸ばした。しかし、カレラさんは問答無用で僕のパンツを下げた。僕のものがこぼれた。僕は悲鳴をあげた。
「うむ。グレートだ」鹿島一等陸尉は、うっすらと頬を染めて、そういった。
カレラさんは顔をこわばらせ、さっと僕のパンツを戻した。勢いがつきすぎて、思いっ切り食い込んだ。僕は悲鳴をあげた。
「うむ。デリーシャスだ」鹿島一等陸尉は、うっとりとした顔で、満足げに頷きながら、そういった。
僕はカレラさんの脳天に、拳骨を振り下ろした。カレラさんはパンツを丸出しにして倒れ、気を失った。
「はしたない。目が腐る。外へ捨てろ」鹿島一等陸尉は目を背け、不機嫌そうな声でそういった。
僕は、急いでジーンズをはいた。知らないでいい世界を、かいま見たような気がした。
カレラさんは、本当に外に捨てられていた。
この場の総責任者である鹿島一等陸尉とともに、僕は別のプレハブに移動する。口にマスクをしっかりと装着した偉そうな軍人たちが、目元にいやらしい笑みを浮かべながら迎えてくれた。僕は、目を逸らす。僕やカレラさんを利用しているだけなのに、いつもふんぞり返っているこのひとたちが、とても嫌いだ。軍人の中で唯一気に入っていたのは、責任感と威厳の塊のくせに、妙に優しいところのある鹿島一等陸尉だったんだけど、さっきの様子を見ていたら、近寄るのが怖くなってきた。
ミーティングが始まった。鹿島一等陸尉が中心になって、今日行う作戦の詳細をみんなに説明する。だけど、ごく普通の高校生である僕に理解できることじゃない。専門用語が多いし、暗号めいた言葉も多い。しかもみんなマスクをしているので、声がもごもごしている。聞いているだけで、眠くなってくる。
「入ってこい」と、鹿島一等陸尉が外に向かって叫んだ。
彼の大きな声に、うとうととしていた僕は、我に返った。
ガチャガチャと真っ黒な防弾甲冑を鳴らしながら、”K兵”が数名、部屋の中に入ってきた。銃身が長くてごついライフルを、軽々しく抱えている。いつもながらカッコイイな、と僕は思う。
次に入ってきたのは、”K動隊”。つまり機動隊だ。その次は”K察官”。つまり警察官。K作員”こと工作員も入ってくる。”K備員”も入ってきた。トランクスにグローブを着けた”K-1”戦士は、そのまんまだ。空手着の”K手家”も入ってきた。電卓片手に”K計士”もきた。烏帽子をかぶり袴をはいた”K主”や、”K’sマートの社員”まで入ってきた。プレハブの中は、ぎっしりである。
「”K”が、奴らを滅ぼす」鹿島一等陸尉は、重々しい声でそういって、僕の肩を撫でるように叩いた。「”K”の存在を、奴らに知られてはならぬ」
その場にいた全員が、声を揃えて「把握」と返事した。
「これより、特攻を開始する。”K”を守り、”K”を突入させるのだ」
「え。もうっすか」僕は驚きの声をあげた。まだ心の準備ができていない。
「奴らは待ってくれん。動き出している。隣の部屋で、準備を急げ」
鹿島一等陸尉に優しく背中を押されたので、僕は逃げるように隣の部屋に行く。お尻がむずむずした。
そこは、食堂だった。テーブルの上に並べられているのは、ギットギトのトンカツ、にんにく臭いステーキ、辛そうなキムチ鍋、チーズたっぷりのピザ、コロッケ、春巻き、フライドポテト、メンチカツ、唐揚げ、炒飯、チョコパフェ、濃いコーヒーとコーラ。朝飯を抜いてきてるから、おなかが空いているのは確かだけど、眺めているだけでも胸焼けがする。
「量、多くないっすか」
「これくらい喰わないでどうする。噛まずに呑め。時間がない」うぷっといいながら、鹿島一等陸尉は部屋から出て行った。
仕方がないので、僕は椅子に腰掛け、マスクを外すと、食事を始める。カレラさんも、これくらい食べているはずだ。彼女はいくら食べても太らない体質だからいいけど、僕は違う。最近、顎がたぷたぷしてきた。体重計に乗るのが怖い。
食事は、十五分で終えた。我ながら、あれだけの量を平らげられるのは凄いな、と思う。
げっぷをしながら、隣の個室に入る。無菌室みたいな狭い部屋で、僕は用意された服を手に取る。最新鋭の、光学迷彩服。通称”K服”。スイッチを入れると、辺りの風景を取り込んで映し、姿を見えなくする服だ。ぴっちりと身体に張り付くので、ちょっと気持ち悪い。
着替えながら、なんでこんなことになったんだろうと、僕は思う。奴らがこなかったら、もっと平和に暮らせたんじゃないだろうか。
いや、違うな。僕のこの力は、いつか僕を滅ぼしていただろう。
自虐的に苦笑して、顔を覆うマスクまできっちりと装着すると、別のドアから外に出る。
そこには、”K”の名を持つ兵たちがずらりと並んでいた。みんな厚いマスクをぴったりと着け、羨望のまなざしで僕を見ている。
「期待しておるぞ」
鹿島一等陸尉が現れて、僕にそういった。彼の舐めるような視線には、気づかないふりをした。
「出撃」誰かが、叫んだ。
躊躇している暇さえ与えてくれない。僕を囲むように、”K兵”が並ぶ。僕は、”K服”のスイッチを押した。自分ではよくわからないけど、これで姿を消せているはずだ。
厚い壁のゲートが開き、僕たちは行進を始めた。
K市の南側は、寂しげな感じだった。商店街はほとんど壊されてなくて、呑み屋もうなぎ屋も薬局も、時間を止めたようにひっそりとしている。当然、ひと気はない。
特攻はもう何度も経験しているけど、やはり緊張する。僕だけは、殺されることはないだろう。みんなが守ってくれるし、引き際さえ間違えなければ、大丈夫だ。だけど、運が悪ければ死ぬこともある。そう考えると、胃が痛くなる。冷や汗が流れる。
僕を守るひとたちは、かなり危険だ。彼らの死傷率は、とても高い。国を守るためとはいえ、よく志願するものだな、と感心する。僕を国に売ったお金でのうのうと暮らしているうちの両親とは、比べ物にならないくらい偉いと思う。
「発見」先頭を歩いていた”K備員”が、叫んだ。
さっと緊張が走る。
奴らが、遠くの建物の影から姿を現したようだ。
誰かが命令し、”K”の名を持つ兵たちは散開しながら銃を撃ちまくった。ただの威嚇だ。銃は、奴らに効果がない。アメリカは核を落としたが、奴らは分裂して数を増やした。BC兵器を含め、近代兵器はまったく効果がないのがわかっている。
ただひとつ、効果があるもの。
それが、僕やカレラさんが持つ、”K”の力だ。
K市の南にあるF市にも、”K”の力を持つひとたちがいる。西のM市や、東のO市もそうだ。奴らは、”K”の力に囲まれている。協力すれば、いつでも奴らを滅ぼせると思うのだけど、何故かそうはしない。大人の事情があるらしいのだが、僕には理解できない。
もっとも、奴らがいなくなって一番困るのは、僕たちかも知れない。この力は、奴らのためにある。奴らががいるからこそ、絶望せずにいられる。僕は、自嘲の笑みを浮かべた。
「正面から、まいりました。あれぞ、ヤケクソアタックでございます」
烏帽子をかぶった”K主”が寄ってきて、落ち着いた低い声で僕につぶやくと、逃げた。
奴らが、街道の向こうから突撃してくるのが見える。数は、三体。
それは、巨大な鼻だった。
体調五メートル近くある、鼻。
鼻に、複数の腕と、四本の太い脚がついている。顔は、ない。これが、奴らだ。どこからともなく沸いて出た、侵略者。アメリカを壊滅させ、日本に上陸した殺戮者。
ちなみに、「奴」という字が奴らの姿にそっくりなので、「奴」と呼ばれている。
大きな鼻の穴の中で、太い触手のような鼻毛をぶらんぶらん揺らしながら、奴らはどたどたと走ってくる。鼻くそがついているのが見えて、凄く不快だ。
盾を構えて並んだ”K動隊”が奴らの足に踏み潰され、”K’sマートの社員”が呼び込みを始め、”K手家”と”K-1”ファイターが奴らの鼻息に吹き飛ばされ、”K察官”が速度違反の切符を切り、”K兵”がライフルを撃ちまくり、”K計士”が被害総額を弾く中、僕はギリギリまで我慢する。
その距離十メートル。
僕は、マスクを外した。
すうっと息を吸い込む。そばにいた”K兵”たちは、素早く僕の後ろに退避する。
奴らが犯した最大の間違いは、日本の、K市に現れたこと。
K市には、僕がいた。
喰らえ、と、僕は心の中で叫ぶ。
はー。
胃の中の空気を搾り出すように、僕は息を吐いた。
奴らは、瞬時に死んだ。
もんどりうって倒れ、そのまま溶ける。
奴らの弱点は、これなのだ。奴らに唯一効果がある攻撃は、これだけなのだ。
”K”。その正式な名称は、”Kousyuu”。
つまり、口臭。
僕の口臭は、世界で一番強いらしい。しかし、僕の最大口臭が持続するのは、約一時間。通常時の口臭では、人間の気を失わすことはできても、奴らは殺せない。
「嬉しくない」
僕は、口臭を撒き散らしながら、泣きたくなるのを我慢した。