俺は満足げに頷き、明日の勝利を確信すると、誰もいなくなった教室を出て鍵を閉め、心地よい疲労感を味わいながら下駄箱へ向かった。
すると、俺の視界に、わけのわからないものが飛び込んできた。
ぞっとして立ち止まる。
――秋刀魚、だ。
下駄箱の陰から半身を覗かせてきょろきょろと辺りを窺っているのは、まごうことなく秋刀魚だった。しかも体長は一六〇センチくらいあり、差し込む夕陽を浴びて橙色にてかっている。
いくら食欲の秋だからといって、いくら脂がのっていたって、こんな秋刀魚は食べたくない。
「な、なんだお前は!?」俺の声は、驚きと恐怖のためにかすれていた。
秋刀魚は死んだ魚のような目を泳がせ、両手で顔の辺りを押さえてやっと俺の方を向くと、その場に跳び上がった。「きゃっ!? ま、まだ残ってたの?」
喋りやがったよ、秋刀魚が。
ていうか、秋刀魚の身体から出ている素足は、どう見ても人間のものだ。上履きの先っちょの色は、俺と同じ赤。つまり俺と同じく高校二年生。同級生に、秋刀魚人間なんかいただろうか。
「いや、お前、何者だ? こんなとこでなにしてんだ?」俺は渋い顔を見せる。
「あ、あなたには関係ないでしょ!」秋刀魚はぷいっと顔を逸らしたが、もじもじとした後、いいにくそうな声で「……逃げてきたの」といった。
そういうことか。
俺は、ピンときた。声を聞いてピンときた。これはチャンスだ。俺はほくそ笑み、この秋刀魚を煮てやろうか焼いてやろうかと舌なめずりをする。
そのとき、暗い廊下の奥から、どたどたと足音が迫ってきた。白衣を着た女子が数人。
「小林! 邪魔しないで。彼女は、私のクラスのものよ」眼鏡をかけた女子が、偉そうな顔でそういった。隣のクラスの委員長だ。
俺は、秋刀魚と眼鏡娘の間に立つ。「ふん。この秋刀魚人間は、明日の秘密兵器、ってとこか。でも、脱走されたみたいだな」
「うるさいわね! 明日は、私たちのクラスが勝つわ!」
「そ、そうなのだ! 明日は、我々が勝つのだ! ……もういいから、あっちいって!」秋刀魚が、怒ったような声を出した。
「さて、どうかな」俺はさっと身をひるがえし、秋刀魚の手をぐいっと引いた。「ついてこい!」
「え? ちょ、なによっ!? 放して!」秋刀魚は僅かに抵抗したが、すぐに俺に引きずられるように走り出す。
「こらーっ、小林ーっ! 待ちなさーいっ!」
眼鏡女たちが、追ってくる。しかし、足は遅い。
俺は秋刀魚の手を強く握りしめたまま、階段を駆け上り、廊下を疾走し、素早く角を曲がり、男子トイレに駆け込んだ。個室に逃げ込み、静かにドアを閉める。
「え? ここどこ? よく見えない」
「どこでもいいだろ」秋刀魚は、視界が悪いようだ。「嫌なんだろ、秋刀魚」
「嫌だけど、あなたには関係ないじゃん!」
「関係ある」俺は洋式便器の蓋を閉め、秋刀魚を座らせる。「俺が解放してやる。感謝しろよ」
俺は秋刀魚の背中のチャックを、下げる。
「ぷはっ!」といって出てきたのは、体操着を着た幼なじみの女の子。さらりと、長い髪が揺れる。
当たり前だが、秋刀魚は着ぐるみだったのだ。
「やっぱ片桐か。声でわかったぞ」
「う。……ありがと、小林」気まずそうな顔で、片桐はつぶやいた。
彼女のシャンプーの香りが、鼻をつく。
そういえば、狭い個室に、ふたりきり、だ。俺は急に恥ずかしくなった。片桐のことは、ずっと妹みたいに思ってたけど、最近やけに女っぽくなってきた。
「べ、別にお前を助けたわけじゃないからな。明日の文化祭は、俺たちのクラスが勝つ。そのために、お前の……、つか、なんなんだ? 秋刀魚?」
「あたしたちのクラスは、コスプレ喫茶をやるの。それで、この着ぐるみ」
「は? ……コスプレの意味、間違えてねーか?」
「うるさいな。あたしだって、嫌だっていったんだけど、委員長が……」
上目遣いで俺を見る片桐。綺麗な肌だな、とか思ったら、ドキドキしてきた。
「あ、ああ。あいつは、ひとの意見とかきかねーからな。去年同じクラスだったから、よく知ってる。顔は可愛いけど、きっついんだよな」
不意に表情を変え、口を尖らせた片桐は、俺の足をげしっと踏んづけた。
「ぐあ!? なにすんだ!」
「うるさーい! 助けてくれたのはありがたいけど、あなたは敵なんだから!」
「なんだそりゃ」
「いいの! 」周りを見て、片桐はやっと気づいたようだ。「え? ここって、もしかして……」
「ああ、男子トイレだ。ここなら、あいつらもこな」
「ばかーっ!」
ばきっ! 片桐のナイスなストレートが、俺の顔面を捕らえる。鼻血が出てきた。
顔を赤くした彼女は、秋刀魚の着ぐるみを引きずって、個室から逃げ出した。
「ったく、相変わらず乱暴な奴だぜ」俺はトイレットペーパーを鼻の穴に突っ込んで、男子トイレから出る。
片桐が、廊下で待っていた。じとーっとした目で、俺を見る。
「あれ。まだいたのか」
「うん。一緒にかえろ?」
つ、と俺の袖を引く。
「おっけ。じゃあ、着替えてこいよ」
「いいよ。委員長に見つかると面倒くさいから。このままかえろ」ひょいと、片桐は秋刀魚の着ぐるみを肩に担ぐ。
「男らしいなあ、お前は」
「もう。うるさいってば」
不満そうな顔で、片桐は俺の頬をつねる。
「あーっ! いた! 小林ーっ! 私の秋刀魚女を帰しなさーいっ!」
廊下の奥から、委員長の声が轟いた。
俺たちは、全速力で逃げ出した。